電機業界と会社の話

頑張って勉強して博士になると報われない国、日本

今日は下記の記事についての投稿です。

  外部リンク<日経新聞”「博士」生かせぬ日本企業 取得者10年で16%減”>

  外部リンク<日経新聞”修士号・博士号とは 海外では学部卒より就職有利”>

筆者も一応大学院で勉強していた人間なので、この手の話はリアルに見聞きしていました。話の本質は筆者が10年以上前から変わらずず~~っと言われ続けていることなので今更言ってんすか?感はあるんですが、それにしても他の人にない知識を持っていて、できないことができる、専門性が高くて付加価値の高い(はずの)人間が日本だと価値を認めてもらえなくて要らない人になってしまうってのが、よくよく冷静に考えると異常な話だなと思いますね。

一生懸命勉強すればするほど、敬遠されるっていうね。やばくない?進学者が減るとか、まあ当たり前です。

理系の大学院ってどんなとこ?

文系の大学院だと特に悲惨だと言われますね。工学系を始めとする理系は比較的ましだとされていますが、それでも博士課程まで進むと厳しくなってきます。筆者は2000年代後半に理系(工学系)の大学院を出たのですが、そのときも理系だと修士課程(大学院2年間で修了)まで出た人が就職では一番有利だとされていましたし、当事者としても実際そうだったと感じています。

理系ってだいたいは大学3年生までを座学メインの勉強過ごして基礎的な知識を習得し、その後の大学4年から修士2年までの3年間では研究に取り組む、というパターンが多い。

もうちょっと詳しく言うと、大学4年で研究室に入って研究に取り組むんですが、大学院生のお手伝いみたいな小さなテーマであることがほとんどで、知識も研究の進め方も見習いレベルです。本格的にテーマを持って研究に取り組むのが修士になってから。自分のテーマというと大げさに聞こえますが、研究室で取り組んでいるテーマの一部を担わせてもらい、修士課程を修了してようやく研究活動を経験したと言えるようになる、みたいなイメージです。大学1年の入学時に「大学4年だけでは教育が完成しません。その後大学院に2年通って修士課程を含めた6年間で教育が完成すると思って欲しい。」と父兄説明の場で説明されたりもします。そういうものなんですね。

そして博士課程(一般的に3年間とされる)になると、一気にハードルが上がります。修士までとは比較にならないくらい高いハードルです。数本の原著論文を出さなきゃいけなくて、そりゃあもう寝る暇もないくらい研究漬けの毎日。3年間で学位が取れれば良い方で、3年過ぎても取れずにもがいている人も大勢います。

そして学位を取得して卒業できても、就職できない人も大勢いる。ここが特に問題だとされているポイント。

日本で博士号取得者が研究者として働くことの現実とは?

筆者が就職活動のときに大学の就活指導の場で言われたのが、「研究者ってのはスポーツ選手みたいなもの」だということ。自分の研究テーマに取り組むために、スポンサーを募って研究資金をもらって研究室を運営したり、自分の専門と合致するテーマに取り組んでいる研究室に雇ってもらい、ある程度区切りがついて自分が必要なくなれば別の研究室に移るとか、そうやって自分をチームに売り込んで、あるポジションで使ってもらうというフリーランス的な側面が強いのが研究者という職業だということです。

日本の会社で必要とされないっていうとちょっとニュアンスがおかしくて「終身雇用、年功序列を前提に人を雇わなければいけない日本の会社とは相性が悪い」が正しいんじゃないかと思います。

開発テーマを持っている企業が、その分野の専門的なことが分かる研究者(ドクター)が欲しいってことはあります。しかし短期的に雇うというのが難しく、日本だと派遣社員みたいな扱いになってしまって「雇用が不安定」って話になるわけです。

更にそういう派遣社員的な身分だと何時いなくなるか分からないから、重要な仕事はずっと居るであろう「正社員」身分の人に担わせて派遣社員には重要なポジションは任せない。

そして正社員で雇おうにも、年功序列賃金がスタンダードな日本の会社では、年齢を重ねている博士号取得者(ドクター)には入社時から高い給料を払わなくてはいけません。博士課程を3年で終えられたとしても、入社時には学部卒と比較すると5つ年を取って会社に入ります。入社時して最初の5年間って社会人にとっては結構大きな意味を持つ期間です。この5年間で社会人としての基礎が身に付き、社内や世の中の仕組みにも慣れて中堅として力を発揮し始める年だし、周囲からそれを期待されるタイミングでもあります。

しかしずっと大学で自分の研究をしていた博士号取得者たちが、そういう会社にこなれた人材と同じことができるかというと、当たり前ですがそれは無理です。つーか比べるのがどうなの?って話なんですが。普通に考えれば、やってきたことが全然違うのに同じ土俵で比べるのがナンセンスです。でも会社は終身雇用&年功序列を前提に待遇を考えなきゃいけないから、年齢での比較が前提になってしまう。だから雇うのにハードルが上がってしまい、そこそこ若くて学部卒よりは教育が施されていてスキルレベルの高い修士卒が一番丁度良い、ということなるのは必然なわけです。

ドクターの就職を阻む日本の雇用制度

ポイントは「終身雇用」と「年功序列」が前提になるということ。終身雇用って言っても実質破綻してんじゃん!というのはその通りなんですが、法的に指名解雇ができない以上は枠組みとしての終身雇用は依然として存在しています。実質破綻していて、良い機能を果たしていないことが問題なんですけどね。

終身雇用という形式の維持(というか雇用制度の法的枠組み)を会社として守らなければいけない以上は、開発テーマが一区切りついて製品化の段階に入ったり、別のテーマに取り組まなきゃいけないというステージに入っても、正社員身分でそれを担当していた研究者を解雇はできない。なので別の仕事をやってもらわなきゃいけなくなる。そのときの仕事は研究者の専門性に合致しているとは限らないわけで、そのタイミングでアンマッチが問題になってしまう。今まで研究開発やってた人に急に営業やれって言ったら、嫌がるのは当たり前です。普通に考えて研究者ってスペシャリストですから、自分の専門性が生かせてキャリアになる仕事をやりたいのが当たり前なんですけど、その仕事を会社として用意できるとは限らないのです。だから専門性が強い人を雇うと後々お互い不幸なことになるので採用の時点で敬遠するし、そういう意味で融通が効いて使い易い修士卒や学部卒の方が良い、ということになるのです。

会社を擁護するわけではないんですが、定められた法の枠組みの中で何とか工夫して効率よく事業をやらなきゃいけないのが会社ですから、こういった雇用制度自体が必然的にドクターを受け入れづらくしている、というのはしばしば指摘されている話です。

ドクターの就職の受け皿になっている大学と公的研究機関

営利企業とは相性が悪い、となると就職先は必然的に大学を始めとする研究機関に限られてきます。だから研究者の人達の雇用を確保しようと思うと大学を作るのが良いという話になるわけで、そうやって研究者たちの活躍の場を増やしたくて乱立したのが数多ある大学と大学院です。

ちょっと極論に聞こえるかもしれませんが、昨今定員割れしてるような大学が何でいっぱい作られたのか?というと、そういう研究者達のポストを作らなきゃいけないという、供給側の論理で作った側面が確実にあります。大学の創設って自治体とか中央官僚とか色んな人達が絡む話なので、地域の教育水準を~自治体として~日本の国際化に貢献~とか色々な大義名分をつけて話を通そうとしますし、当然それぞれの立場で期待することは違うんでしょうけど、大学を運営する当事者達が期待するのは自分達のポストの確保です。

しかし少子化が進行し、国の予算にも限界がある中で、そんなものを供給者側の都合だけで延々と増やせるわけもありません。なのでその手でポストを増やすことも限界に達しており、更に本来あるべき民間での就職先の確保という超重要な問題を先送りして解決しないまま大学院重点化施策を進め、大学院定員を急増させたことで研究者のポスト不足が深刻化しています。

大学院大学(学部が無い大学院だけの大学のこと)は、東大とか東工大とかほんの一部の高いブランド価値のあるところしか経営が成り立っていないと言われています。博士まで行っても経済的にはあんまり美味しくないことが分かり切っている中で、博士になろう、大学院に進学しようという人が少なくなるのは必然で、そういう大学院大学の需要が高まるはずもない。

私の出身大学院でも、ついに人事昇格の凍結とか凄まじいことをやり始めましたからね。昇格を凍結させて当面は今の身分のままになるってことです。教授になってる人は身分が守られ、下の助手なんかはいくら頑張ってもポストや収入面では報われなくなるってことですから、飼い殺しです。モチベーションの維持が困難になるのは目に見えています。それだけ予算面で追い詰められてるってことなんでしょう。話の筋としては、日本ではもう研究者の活躍の場が無いから、海外に行けってこと?ってことです。

博士課程への進学者が減るのは必然

辛い割には経済的にも報われないし、美味しくないキャリアを歩むには、よっぽどその研究が好きじゃないとやれません。だから良心のある教授は博士課程進学は勧めません。むしろやめるように説得する人もいます。

筆者が大学院在学中に超優秀でドクターになろうか迷っている友人がいました。あるとき彼が教授に聞いたんです「研究者の仕事ってなんですか?」って。そしたら「論文を書くことだ」って言われて幻滅して、結局博士課程進学はやめて就職しました。まあその教授の言い方も悪いんですが、開発した技術をいかに世の中に役立てるか考えることだ、とか前向きなことを言って欲しかったんでしょうけど、論文を書くことが仕事って言われちゃうとつまんなく感じるのも無理もない。しかし論文を書いて成果を認めてもらって自分の研究ができる居場所を確保することが最優先事項だっていうのが、普通の教授の本音でしょう。別に悪いことでは全くないんですが、夢や志が感じられず、閉塞感を感じてしまっても致し方ないかなと。

大学の研究室なんて細かく分かれた専門分野というすげー狭い世界で少ないポストを争う世界です。教授もそうやって自分の居場所を守ることに精一杯なので、学生の教育ってのは二の次になりがちです。学生を立派に育てて社会に送り出すことより、自分の成果を上げることの方が成果として認められやすいのです。組織のKPIがそうなってしまっているってことですね。

だからブラック職場みたいになっている研究室っていっぱいあります。学生は無料でこき使える労働力だし、教授もそれで育てられて今の地位にあるっていう成功体験があるから、それを学生に強いるしね。(10年以上前の話でなので今は変わってるかな(^^;)。ってか変わってて欲しい。当時は精神を病んじゃう人も大勢いました。)

諸外国では博士号取得者の需要は高まっているって話ですし、やっぱり日本型雇用の必然からこういうことになっているとしか思えません。流動性が高まれば必然的に付加価値の高い人材の需要は高まるわけで、高度な人材の輩出にもつながるはずです。競争になるってことだから嫌がる人は大勢いるいるでしょうけど、一生懸命学んだ付加価値の高い人達が敬遠されるという、どう考えてもおかしい状況は改善するんではないかなと思います。

何もできないけど、とりあえず知って考えてみよう

ドクターの称号ってPh.D(Doctor of Philosophy)って書くんですけど、(若干の曲解もあると思いますが)これって哲学者っていう意味。ある分野で深く探求できる人ですよ、それくらい何をやっても深く掘り下げて成果を出せる人ですよ、というニュアンスがあるわけです(もちろんある程度の専門分野はあるんでしょうけど)。

そういう人達が思う存分力を発揮できる、活力に満ちた社会になることを願ってやみません。そのためにできることは、まず有権者として「知っておくこと」「各々自分で考えること」なんだろうと思い、少しでも関心を持った人が考えるきっかけになれば良いな~、というのがこの投稿を書いた意味です。

ではでは~。

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